国際収支ってなに?


コモロの地図コモロ連合は事実上、アンジュアン島、グランドコモロ島、モヘリ島の3島により構成されており、それぞれの島に自治政府がある。連合を構成する3島には独自の自治政府と大統領が置かれ、その島の内政を担う。 地理 コモロは、コモロ諸島における4つの主な島のうち、3つで構成されている。残りの1つはフランス領のマヨット島であるが、コモロ連合はこの島の領有権も主張している。諸島はインド洋西部にあり、アフリカとマダガスカル島の間にある。ンジャジジャ島(グランドコモロ島)は火山島であり、Le Karthala (2,316 m) は活火山である。 経済 主要産物はバニラ、クローブ、イランイランなどの香料。工業はほぼ農産物加工のみ。 国民 民族は、アフリカ系黒人やアラブ人などが大多数である。 公用語はコモロ語、アラビア語、フランス語。 宗教はイスラーム教が国教である。イスラーム教スンナ派の住民が多いが、近年のイランのFX 経済進出によりイスラーム教シーア派も増えている。 コロンビア共和国(コロンビアきょうわこく)、通称コロンビアは、南アメリカ北西部に位置する共和制国家である。東にベネズエラ、南東にブラジル、南にペルー、南西にエクアドル、北西にパナマと国境を接しており、北はカリブ海、西は投資信託 に面している。首都はボゴタ。 ブラジル、メキシコに続き、コロンビアはラテンアメリカ第3位の人口を誇る。コーヒー、エメラルド、バラそしてコカインの産地としても有名である。現在は左翼ゲリラ、極右民兵、麻薬組織による低烈度紛争に苦しめられている。内戦は1964年から1966年にかけてゲリラの蜂起から始まり、現在も特に抵抗が大きいのはコロンビア革命軍である。 国名はアメリカ大陸の「発見」者クリストバル・コロンに由来し、アメリカが「アメリゴの土地」を意味するように、コロンビアは「コロンの土地」を意味する。植民地時代はスペインのグラナダに由来したヌエバ・グラナダ(新グラナダ)という名前であり、独立後もこの名前を使っていた時期があったが、後に解放者シモン・ボリーバルがかつて掲げた統一の名前を受け継ぎ、現在の国名となった。 先コロンブス期 エル・ドラード伝説を生み出したムイスカ人の黄金の筏紀元前10450年頃に、ボゴタ近郊のエル・アブラの遺跡で先史文化の萌芽が見られる。中央アメリカから渡ってきた諸族の影響が大きくトウモロコシも彼らによって持ち込まれた。サン・アグスティンの遺跡も恐らく彼らによるものだと思われている。紀元前1000年、インディオのグループは南アメリカでインカ帝国に次いで最も優れていたといわれる行政システムであったカシケと呼ばれる首長による一種の首長制国家群("cacicazgos")を発展させた。その好例をチブチャ系のムイスカ、タイロナ、カリマ、キンバヤ、シヌーなどの部族とその文化に見ることができる。紀元前300年ごろ、現在のニカラグアに相当する地域からチブチャ系の人々が渡って来てからは、以降彼らを中心に独自の文化が育まれた。特にボゴタ盆地に居住していたムイスカ人はトウモロコシとジャガイモを栽培し、カピバラの一種を家畜化して、生産物を低地民のコカや木綿と交換することにより生計を立てていた。 植民地化 クリストバル・コロンのアメリカ大陸上陸西暦1500年に、ロドリゴとバスティダスに率いられたスペイン人探検家がカリブ海沿岸を訪れるとそれに続いて1502年、クリストファー・コロンブスはカリブ先物取引 とチョコ (Choco) の西岸を航行する。1508年、それまでにパナマ地峡を征服していたバスコ・バルボアはウラバを征服し始める。1525年にアメリカ大陸最初のヨーロッパ人の町サンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエン (Santa Maria la Antigua del Darien) を今のチョコ県に建設する。その地域の先住民族は、チブチャ系 (Chibchan) とカリブ系(Karib, 今のカリブ族)が多数を占めていたが、最大の王国だったムイスカ族のバカタ王国が征服者ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダにより征服された結果、病気、搾取などによりの著しい人口減少が起こった。ムイスカ人の首都バカタはサンタフェ・デ・ボゴタと改名され、以降スペイン人の拠点となる。 スペイン人は16世紀になると アフリカから奴隷を送り込み始める。その後カルタヘナ・デ・インディアスはペルーからの黄金の積出し港となり、富を狙ってのジャマイカを拠点にしたイギリスからの攻撃が激しくなった。スペインはイギリスからの防衛のために1717年にアンデス北部を ヌエバ・グラナダ副王領として、ペルー副王領から独立して組織した。この副王領は資金不足により一端廃止されるが、1739年に再び北部南米をベネスエラなどと共にヌエバ・グラナダ副王領が再編され、サンタフェ・デ・ボゴタに首都を置いた。しかし、その後も カルタヘナなどの都市に対してイギリス海軍や海賊の攻撃は続き、現在も城壁が残っている。 1781年ソコーロで増税に反対したクリオージョ達がコムネーロスの反乱を起こした。これはメスティーソやインディヘナをも含めた人民蜂起であり、革命委員会(コムン)が結成されたためにコムネーロスと呼ばれたが、結局は増税の実施が見送られてこの反乱は終結した。 解放戦争 アントニオ・ナリーニョ ククタの会議でのフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルと日経225 をはじめとするコロンビア独立の志士たち19世紀はじめにこの地でも独立戦争が始まり、スペイン軍と独立派の死闘が繰り広げられた。独立運動は10年以上に及んだ。 1806年からフランシスコ・デ・ミランダに率いられた解放軍により、隣のベネスエラ総督領から解放戦争が始まったことを受けて、ヌエバ・グラナダでも独立戦争が始まった。1810年7月、アントニオ・ナリーニョが副王を追放してサンタフェ・デ・ボゴタを中心にクンディナマルカ共和国の独立を宣言した。同時にカルタヘナがカルタヘナ共和国の独立を宣言して、すぐにカルタヘナを中心としたカリブ海側の五州がヌエバ・グラナダ連合州として合流した。 翌1811年のボゴタの議会で地方諸州とボゴタはヌエバ・グラナダ連合州として合流し、軍隊の指揮権と全体の指導権をボゴタが持つことを認められた。ナリーニョとフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルは1812年に崩壊したベネスエラ共和国を代表として抵抗を続けていた、シモン・ボリーバルを統領とするベネスエラ人独立勢力らと協力してスペイン軍と戦い、ボリーバルも1813年にはベネスエラを再び解放するが、本国でのフェルナンド7世の反動的復位によってスペイン軍は再び勢力を増した。連邦派(カルタヘナ派)と集権派(ボゴタ派)の不一致を突かれる形で1814年2月には外為 が陥落した。ボリーバルはその後カリブ海側のカルタヘナを拠点にスペイン軍と戦いボゴタを奪還したものの、1815年6月にカルタヘナで起きた王党派の蜂起に敗れ、辛うじてイギリス領ジャマイカに逃れた。1816年5月、スペイン軍の攻撃によりボゴタは陥落した。 ボリーバルは1818年にジャネーロの頭目だったホセ・アントニオ・パエスの力を借り、1819年にはアンゴストゥーラを臨時首都としてのベネスエラ第三共和国が再建され、コロンビア共和国も創設された。1819年8月のボヤカの戦いに勝利するとボゴタが解放され、ヌエバ・グラナダも最終的に解放されて、ボリーバルはコロンビア共和国の建国を正式に宣言し、コロンビアの首都も改名されたボゴタに定められた。1821年にカラボボの戦いでの勝利によりカラカスが解放されると、ベネスエラも最終的に解放され、両国は改めて正式にコロンビア共和国を形成した。1820年には解放されたグアヤキルが、1822年にはキトが併合され、このコロンビア共和国は現在のコロンビア、ベネスエラ、エクアドル、パナマの全て及びペルー、ガイアナ、ブラジルの一部を含む北部南米一帯を占める大国家となった。 1821年9月、ヌエバ・グラナダ人で、ヌエバ・グラナダを代表してボリーバルの副官を務めていたサンタンデルはコロンビア共和国の副大統領となり、不在の大統領に代わってヌエバ・グラナダを治めていたが、1827年のボリーバルの帰還後、コロンビア共和国を集権的にまとめようとするボリーバルと、連邦的な要求をするサンタンデルや、ベネスエラを支配する アントニオ・パエスの不満が高まった。サンタンデルは1828年にはボリーバルの暗殺を謀り亡命した。キトを巡ってのコロンビアとペルーの戦争も起きた。その後ベネスエラが独立を要求した。 1830年にエクアドル(キトとグアヤキルが連合して赤道共和国を名乗った)と、故郷ベネスエラはパエスの指導下で完全独立を果たし、ボリーバルは終身大統領を辞職し、ヨーロッパに向かってマグダレーナ川を下る中、サンタ・マルタ付近で失意内に病死した。翌1831年にラファエル・ウルダネータ政権が崩壊すると同時にコロンビア共和国も崩壊し、残存部がヌエバ・グラナダ共和国として再編成を図った。 コロンビア合衆国まで 首都ボゴタのカテドラル1832年、亡命先からサンタンデルが帰国し、ヌエバ・グラナダ共和国の大統領になると、保護貿易により産業が発展し、奴隷貿易が廃止され、公教育が拡充するなど連邦的な政治が進んだ。1840年代にはコーヒーが栽培され始めた。 大コロンビア時代からから続く中央集権派と連邦派が、保守党と自由党に組織し直された。1849年には商人や職人、新興ブルジョワジー、小農などの連邦派が自由党を結成し、これに対抗して貴族や大地主、教会などを支持基盤に保守党が結成された。これによりコロンビアは現在まで続く二大政党制となったが、寡頭支配体制の維持という点で両党は共通していた。 1849年から1853年まで大統領を務めたホセ・イラリオ・ロペスはイエズス会の追放、教会財産の没収、黒人奴隷の廃止などの反教会、自由主義政策を採った。以降1880年までコロンビアでは自由主義者の政権が続いた。そして1855年に「手工業共和国」と呼ばれたホセ・マリア・メロ将軍の政権が打倒されると、保護貿易は廃されて自由貿易が導入され、育っていた工業の基盤が壊滅した。 1857年には自由主義者マリアーノ・オスピナ・ロドリゲスが大統領になり、1858年にはロドリゲスの手によりグラナダ連合が発足した。ロドリゲスはイエズス会の帰国を認めて教会特権を復活させ、中央集権化を図るなど保守化したため、1861年に自由主義者だったカウカ州知事のトマス・シプリアーノ・ド・モスケラが蜂起し、7月にはボゴタに入ってロドリゲスを追放した。モスケラが政権を握ると、1863年に成立したリオ・ネグロ憲法では自由主義的な内容が採択され、グラナダ連合は各州が外交権を持つ8州からなる連邦制国家、コロンビア合衆国となった。この時代にボゴタでは科学や文芸が発展を見せ、ボゴタは「南米のアテネ」と呼ばれた。 1880年に保守派のラファエル・ヌニェスが自由党右派と保守党に推されて大統領になると、ヌニェスはスペインに独立を承認させ、国立銀行を建設して経済の安定を図った。ククタ周辺でのコーヒー栽培の拡大により、コロンビアの主産業となり、鉄道網も拡大していった。 1884年に再選されたヌニェスは連邦制を廃止しようとし、政治と教育にカトリック教会が参加することを認めたため、1885年に自由主義者が反乱を起こした。ヌニェスがこの内戦に勝利すると、1886年にリオ・ネグロ憲法は放棄されて、カトリック教会と国家の同盟、中央政府の権限拡大、大統領の任期を6年に延長、中央集権主義などを盛りこんで教権の強い中央集権的な憲法改正がなされ、コロンビア共和国が成立した。